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正解かどうかなんて、死ぬときまでわからない Part1
beyond worker 008
 2014,10,21

正解かどうかなんて、死ぬときまでわからない Part1

小倉ヒラクくんは、旧知の友人である。
肩書きは、発酵デザイナー。イラストレーター。アートディレクター。
2014年には『手前みそのうた』を出版し、世田谷ものづくり学校自由大学では発酵学の講師も務め、各地でワークショップも行う。
2014年7月まで在籍した合同会社++(たすたす)では経営者として、デザイン会社でありながら、東京の森を守る活動を通じて小売業も手がけてきた。
ひとことで「こういう人」と説明できないほどに活動が多岐に渡る彼が、5年後、10年後になにをしているのかわからないと思った。同時に、5年前、10年前にはなにをしていたのか、とても興味を持った。
インタビューを通じて、なにが彼をBeyondworkerにしていったのかを探った。

-ヒラクくんは「どんな仕事をしているんですか?」って聞かれたとき、どのように答えているんですか?
よく聞かれるんですけど、なかなかすっきりとは答えられなくて、やっぱり時間がかかりますよね。

-では「これを読めばわかる!」というインタビューにできればと思います。ヒラクくんは大学の頃はどんな学生だったんですか?

文化人類学を勉強していたんですけど、旅行が好きでアジアをはじめバックパッカーで海外をぷらぷら放浪していることが多かったです。

-時間のある学生の時らしい過ごし方ですね。

そうですね。イラストもその頃すでに書いていたんですが、あるとき都内で個展をしていたら、それを見たフランス人の画家が「フランスの展示会で出展しないか?」と声をかけてくれたんです。それで後日、友人に代筆してもらって「展示会っていつ出来るんですか?」と手紙を出したんです。そしたら返事が来て、「君はフランスに一年くらい住むって言ってたから、こっちに来てから考えたらいいんじゃないか?」と。「フランスに住む」なんて一言も言ってないのに。面白そうだったので、それでじゃあもう行っちゃおうということでフランスに行って、結果として7ヶ月くらい住んで、展覧会に参加したりしているという日々を過ごすうちに、新卒で就職する機会をすっかり逃しました。
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【企画とイラストとアニメを作った『てまえみそのうた』】

-やっぱり個性的な学生です。
それでこれからどんな風に暮らしていきたいかってことを考えたときに、自分が海外を通じて10代の頃から吸っていた自由な空気を感じられる生き方を、日本に居ながらにしてどうにかできないかなと考えたんです。それでいて、仕事は「東京で美術とデザインに関わることがしたい」と思っていました。
-やりたいことと現実との折り合いをつけていく時期ですね。
はい。自由な空気を感じられる暮らしと、東京での仕事とのいいとこ取りをどうにかしてできないかと頭をひねった結果、ぼくはバックパッカーの旅先でいろいろな人の家に居候したり、人種の異なる人たちと会ったり、友人たちと一緒に長い時間を共有することが好きだったので、じゃあ“自分から行くのではなく、面白いやつを世界から呼べばいいんだ!”と考えて、無一文で無職のまま借金してゲストハウスを作ったんです。
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【ゲストハウス1】
-それはすごい。都内にいながらにして、バックパッカー的な空気の中で暮らすというアイデアを実現したと。作ったゲストハウスは思い描いた通りのものになりましたか?

かなり自由な雰囲気にあふれる場所になりました。旅をしていたときに仲良くなった人とか、ヒッピーみたいな人がいっぱいやって来て長期滞在するようになっていきました。運営も順調で、自分の家賃や食費分は稼げるようになっていきましたし、学生の頃からやっていたデザインやイラストの仕事も並行しておこない、経済的に豊かとは言えないまでも、食べるものには困らない状態でしたね。

-計画が見事に当たったと言えそうです。

かなり楽しい毎日を過ごしていました。でも、やはりいろいろな人が集まることによる問題も徐々に発生してきました。お酒を飲んで騒ぐことも多かったですし、自分の想定していた以上にゲストハウスが盛り上がるようになり、だんだんカオス状態になってきて警察もよく来るようになってしまったんです。
今と比べて当時は、ルームシェアやゲストハウスっていう考え方もあんまり認知されていなかったですし、アラブ系や黒人とかもたくさんいて、怪しい印象で見られていたこともあると思います。
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【ゲストハウス2】
-それはわかる気がします。ヒラクくんの“ゲストハウス時代”はいつまで続いたんでしょう?

大学を卒業した年の夏過ぎくらいまでですね。朝、目を覚ましたらリビングで知らない人が寝ていて、起こそうとするんですが何語で話しかけたらいいのかわからないというような状態が続いて、「このままの生活では自分もやばいかも…」と危機感を感じて就職することにしました。
-はじめて就職はどんな会社だったんでしょう?

当時ベンチャー企業だった、スキンケアの商品を取り扱う『あきゅらいず美養品』という会社で、ぼくはインハウスのデザイナーとして広告やweb制作の仕事をしていたのですが、“オフィスを森にする”と言って内装を変えたり、給与体系を社員が自分たちで決めたりと、かなり個性的な会社でしたね。

-就職するといってもそれこそ会社選びにもたくさんの選択肢があったと思いますが、なぜ『あきゅらいず美養品』だったんでしょうか?

デザインの仕事をしたかったんですが、デザイン事務所だと仕事が夜遅くなってしまって遊べなくなるでしょう?インハウスのデザイナーだと18時には仕事が終わるというのが良かったんです。結局ゲストハウスの運営も就職後も並行してやっていましたしね。
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【合同会社たすたすでヒラクくんがアートディレクションしたあきゅらいず美養品の10周年記念コンセプトブック】

-でも、そうして選んだ『あきゅらいず美養品』が勢いのある会社だったんですね。

はい。ぼくが入社した当時は社員数もまだ6人くらいの小さな会社だったんですが、3年後に自分が辞めるときには社員数も80人くらいになり、売上もそれに比例して成長していました。

-急激に成長していく会社に所属する経験は、したくてもなかなかできるものではないです。

すごくお世話になりましたし、『あきゅらいず美養品』とは今でも一緒に仕事することもあります。会社はかなり面白かったんですが、就職して3年後に26歳でデザイナーとして独立しました。でもなにかアテがあったわけでもなく、デザイン事務所にいたわけでもないので、ぼく自身のお客さんもいなかったんですけど。元気が有り余って独立してしまっただけのようなものです。そんなわけで当たり前なんですけど、全然仕事が来ませんでした。
ただ、独立にあたって自分の仕事に対してのルールをふたつ決めたんです。ひとつは、問題の本質的な解決に向かうために、「代理店との仕事はしない。クライアントと直で仕事する」というもの。もうひとつは、「世の中に役に立つ仕事しかしない」というものです。

-なぜそのふたつだったんでしょう?

自分自身に嘘をつく仕事はしたくないと思っていて、それを言葉にするとこのようになりました。

>>『正解かどうかなんて、死ぬときまでわからない Part2』へ続く