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目の前の仕事に全力を尽くせ <strong>PART 1</strong>
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 2013,11,20

目の前の仕事に全力を尽くせ PART 1

飯田昭雄さんは多摩美術大学の建築学科を卒業後、白夜書房へ入社しエロ本編集からキャリアをスタート。編集者として雑誌や書籍の編集を手がけ、BAPE® GALLERYのキュレーターを務め、広告会社のWieden+Kennedy Tokyo(ワイデンアンドケネディ東京)ではアートバイヤーとして活躍。震災後は宮城県石巻市のまちづくり支援を行う一般社団法人ISHINOMAKI 2.0の立ち上げに参画、フリーパーパー『石巻Voice』を編集し理事としても活動、現在は広告代理店にてアートバイヤー/プロデューサー。まさにBeyond Worker。経歴と肩書きだけ見るとカルチャーのド真ん中を歩んできた、近寄りがたいスゴい人という感じがするが、飯田さんは誰に対してもフラットでそこがまたスゴい。多忙なスケジュールの合間を縫って僕らのインタビューにも快く応じてくれた。

———僕らが飯田さんのお仕事を知ったきっかけは2007年のナイキの「JUST DO IT 東京」キャンペーンです。東京都心の「ここに?」というストリートの壁にスケーターやダンサー、BMXライダー、ピスト乗りの特大ポスターが貼られて話題になりました。「アートバイヤー」という職種があるのも飯田さんのお仕事を通じて知りました。

都内の130カ所の壁面広告で各所全部クリエイティブが違う、ナイキジャパンとしては初の大型屋外広告キャンペーンだったんですよ。実際にストリートで活動をしている若いアスリートたちを撮影するにあたって、彼らのコミュニティに近いリアルな写真家さんにお願いして。彼らにインタビューをして実際に出てきた言葉をそのままコピーにしました。

アートバイヤーという職種は、欧米の広告業界では確立されている専門職なんですが、日本の広告業界ではきっと僕と前職でパートナーだった渋谷浩美くらいだと思います。あらゆるジャンルのアーティストやクリエーター、モデルまでをキュレーションし、クリエイティブ(チーム)、クライアントの間に入り調整役として制作を担う仕事です。アートバイヤーとして働くようになるまでいろんな仕事をやってきましたが、最初は実家が建築をやっている関係で、建築を学ぶために上京して多摩美術大学の建築科に入りました。昔からアートや絵を描くのが好きだったので理工系の大学ではなくて多摩美に入ったんです。だけど、結局建築が肌に合わなかった。

本や雑誌も好きだったので、編集という仕事に憧れはありました。中学時代に影響をうけたのが『写真時代』という、写真家の荒木経惟が世に出るきっかけになった雑誌で、これがとにかく凄かった。女性の局部の写真だけを使ったコラージュとか、赤瀬川原平の連載もあって「超芸術トマソン」もこの雑誌からブームになった。いまも活躍しているサブカルチャーの要人たちがこの雑誌でコラムを書いていたんです。発行元は白夜書房でその時の記憶もあって、僕が社会に出て最初に入る会社になりました。

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ナイキジャパン「Just Do It 東京」キャンペーンの様子。このような大型広告が東京のあちこちに貼られた。

———大学で就職活動をして、卒業してすぐに就職なさったのですか?

大学を卒業してから一年間はフリーターをしていました。まだバブルの空気が残っていて、バイトでもそれなりに稼げたので。友達のジャッキー&ザ・セドリックスというバンドが92年にアメリカツアーに行くというので、そのツアーに同行して初めてアメリカに行ったり。帰ってきてから編集の仕事をやろうと白夜書房の採用面接に申し込んだら運良く受かった。当時の僕としては美大を卒業してアメリカから帰ってきて、もう希望に沸き上がる20代の青年だったのですが、入社していきなり配属されたのが、子会社のエロ本編集部で。

最初に配属されたのが『クラスメイトジュニア』という、それはえげつない雑誌の編集部でした。でも、当時はエロ本が大ブームで発行部数が10万部くらいあって、、いわゆるエロ本黄金期。「ブルセラ」や「コギャル」という言葉が生まれた時代でした。隣は最近摘発された「ニャン2倶楽部」という雑誌の編集部。いわゆる投稿系のハメ撮り写真を全国から集めて、まだフィルムの時代だったのでそれを全部チェックして墨をいれたり仕分けしたりといった下仕事もしていました。

当時は撮影の制作費もキャッシュで数十万ポンと渡されて、モデルのギャラやスタジオ代、小道具なども全部とっぱらいで払っていましたよ。当時はDTPも無かったので、原稿用紙に原稿を書いて写植屋さんに入稿して、台紙を見てレイアウト用紙にタイトルの級数を入れて版下を作って。その時代の印刷のノウハウを全部覚えさせられました。台紙の写植文字を間違うとカッターで切ってトレスコ(トレーシングスコープ)という機械を使って自分で焼いた文字をまた貼込んで。印刷所にも通っていましたし、印刷工程を直に経験して、それがすごくおもしろかった。雑誌ができる、ものができる工程に立ち会うことができるだけで幸せでした。だけど、エロという編集界のヒエラルキー最下層(笑)。そんな環境の中でも美大を卒業した自分としては、たとえエロ本でも何かカッコいいことをやってやろうという気持ちで仕事に向き合っていました。

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「ヨネちゃんこと写真家の米原康正と一緒に作った、幻のエロ本『NAKED MAGAZINE』。蒼井そらを筆頭に当時のトップAV女優をモデルにNIGOから野口強、KAWSからKOZYNDANといった世界中の友人知人にエロティックをテーマにした作品を依頼。一部の人たちの間では衝撃が走ったあまりにも早すぎた迷作」

雑誌が売れて調子は良かったのですが、各自治体での条例や有害図書指定みたいな周りの状況が厳しくなっている中、雑誌の内容も常にギリギリのところを攻めていたので、ある日突然警察が編集部に乗り込んできて直属の上司が逮捕されたんです。目の前で手錠をかけられて、子供と奥さんのいる自宅も家宅捜索されて。これはやばいなと目が覚めましたね。次は自分が逮捕される、方向を変えなくてはと思いました。それがちょうど90年代半ばくらいの時です。

ちょうどその時期に裏原(ウラハラ)のブームが来ていて、当時ファッションブランドを立ち上げていた同年代の若いデザイナーたちの間でフィギュアが流行り始めていました。アメリカを中心にスターウォーズ人気が復活したり、SPAWNというアメコミのフィギュアがボンボン売れるよう時代になった。僕もアメコミやキャラクターものが好きだったので、フィギュアの本を作ろうと思い、自分が初めて編集長として作った本が『アメイジングキャラクターズ』でした。当時は『ホビージャパン』のようなカタい模型雑誌しかなかったので、若者向けにデザインされてサブカルチャーやアートの要素が入っている雑誌として話題になったんです。

この本がきっかけでBOUNTY HUNTERのヒカルくんと仲良くなって、フィギュアが好きならもっとおもしろい人たちがいるよと、スケシン(SKATE THING)くんやジョニオくん、NIGO®くんたちを紹介してくれて。それで彼らと一緒に仕事をするうちに、エロの最下層にいた自分がどんどん東京のストリートカルチャーの最前線にいるおもしろい人たちと交わるようになっていったんです。エロ本編集時代は4年くらい。20代後半にこのフィギュア本を作ってから、ちょうど30歳で3号目ができた。その時にWARP MAGAZINEという雑誌を発行しているトランスワールドジャパン株式会社に移籍して『MASSIVE ACTION FIGURE』を編集することになりました。

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『アメイジングキャラクターズ』第3号/『MASSIVE ACTION FIGURE』
「駆け出し時代から共に歩んできた旧友、Rockin’Jelly Beanに表紙を描いてもらうことにとことんこだわり抜いた両誌」

>>『目の前の仕事に全力を尽くせ PART 2』へ続く