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目の前の仕事に全力を尽くせ <strong>PART 4</strong>
beyond worker 006
 2013,11,29

目の前の仕事に全力を尽くせ PART 4

———震災以降、石巻でISHINOMAKI 2.0の活動をなさっていますが、そこにはどのような経緯があったのでしょうか?

東日本大震災は僕にとって非常に大きなインパクトでした。3.11は、ちょうど六本木のオフィスで仕事をしていました。地震があって、すぐにスタッフ全員が帰宅させられて。外資系企業なので上司たちは本国に帰ってしまい会社として機能しなくなった。自宅で仕事仲間とメールをやりとりする中で「広告業界で働く人間として何かやるべきことがあるのではないか?」と、企画書を作ったんです。それを社内のプロジェクトとして承認を得ようと上司にプレゼンをしたのですが、小さなデザインやシステム上の問題を突っ込まれて思うように進まない。震災直後で着るものも食べるものもないという人がいるというのに、広告の枠だけでしか話ができない。社内で企画書だけが飛び交っている状況が、自分の中で突然アホらしくなったんです。



そんな時、救援物資を持って東北に行っていた友達から「飯田君、すごかったよ、想像以上だった。子供たちも遊ぶものが何もなくて、トイレットペーパーの芯で積み木をして遊んでいるんだよ」という話を聴いて、「いま自分ができることはこれだ!」とひらめいたんです。当時被災地では衣食住への救援物資は集まっていたのですが、エンターテイメントや娯楽のサポートが全くなかった。すぐに自分の身近な友達にメーリングリストで「身の回りの使わないもので、子供たちが遊べるものを集めてくれないか?」と投げかけるとすごい量が集まりはじめて。アップルにいる友達は社員の机の中に眠っていたipodなどを100台くらい集めてくれたり、映画会社の友達からは最新のDVDのボックス、ミュージシャンの友達からはウクレレが何10セットも送られてきた。みんなが送ってくれた品々が会社の玄関にあっという間に山積みになったんですよ。それを見て、みんなの想いがどこの誰に届いたのかを自分が直接伝える義務があると感じ、おもちゃを積んで東北に行くようになりました。



それまでボランティアの経験も全くありませんでしたが、荷物満載のキャンピングカーでガタガタだった東北道を走って、友達と二人で仙台と名取に入りました。現地では想像以上の風景が広がっていて愕然としました。もちろんアポなしだったので、名取の中学校に行くと職員さんから「何しに来たんですか?」と言われるような状況でしたが、説明をして物資を渡すと喜んでもらえて。何度か被災地に通う中で、石巻が大変だということを聴いて現地に入りました。

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「石巻にて2011年6月撮影。石巻2.0がまだ一般社団法人になる前、メンバーのがっつり被災した料亭2階を活動前線基地にしていた。ライフラインもまだ復旧しておらず、夜になるとジェネレーターと工事用照明を使っていた」



道路脇に4tトラックが直列に立っていたり船が転がっていたりといった状況の中で小学校の避難所に入ると、陸上自衛隊の軍用車が何台も校庭に並んでいました。敷地内にあったボランティアセンターへ行くと、スタッフの方からは「何しにきた?」と。当時は全国から現地のニーズに合わない一方的な救援物資もたくさん届いていたようで、彼らの不信感が伝わりましたが、僕たちがおもちゃの話をすると急に顔色が変わって。偶然その日はキッズスペースができたばかりのタイミングだったそうで、スケボーや楽器を見つけた子供たちが歓声を上げながら集まって、すぐに遊びだしたんですよ。僕たちの想いがちゃんと現地の子供たちに届いたのを実感できて、その感動が石巻で活動を続ける大きなきっかけになりましたね。



復旧が進み現地でも次の事をやらなくてはという空気になっていた時、地元の集会に誘われたんです。顔を出してみると、ジェネレーターの照明の下、泥の中から掘り出したような日本酒を飲みながらみんなで鍋をつついていた。その場は被災地の外の人も中の人も関係なく、不思議な一体感がありました。いま石巻2.0のメンバーになっている、外から来た建築家やデザイナーや大学教授もいて、おもしろいメンツでした。家も家族も職も失くした地元の人たちが「オレらの街をどうすっぺ?」と、自分の事はあとにして街のこれからを語る前向きな姿勢にショック受けました。被災した場所を元に戻してもしょうがない。震災前よりも良くしなければ、死んだ人たちが浮かばれないし、外から来た人たちとの出会いの意味がなくなると。



例えば、幕末や明治維新の時代、社会が変わらなければならないとき、同じような場面があったかもしれない。その時、坂本龍馬の周りに集まってきた人たちも土佐や薩摩や地方から出てきた人間ばかりだった。「よそ者、若者、バカ者」と言われるように、世間から異端と見られていたような人たちが真剣に日本のことを話し合って、彼らのおかげで今がある。それが石巻の当時の状況とオーバーラップしたんです。



これから石巻で、飯田昭雄という一人の人間として何ができるのか? そのとき現地の人の「もっとカジュアルに石巻を伝えられるメディアがほしい」という声にピンときて、自分の役割が見つかったんです。編集者をやっていた自分ならフリーペーパーをつくることができる、広告も集められるしお金もなんとかなる。不謹慎かもしれませんが、石巻の人に対してすごく興味が湧いてきた。こんな過酷な状況でも力強く生きていこうとしている人たち、一体彼らはどんな人たちなのかを知りたかった。

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飯田さんが編集長を務める石巻のフリーペーパー『石巻Voice』



当時はまだW+Kに在籍していて、プロボノ活動の一環として会社から容認されていましたが、取り憑かれたように石巻の活動ばかりをやっていました。いま考えると、それを会社が許してくれたということにとても感謝しています。石巻2.0ができると、すぐに会社の空いていた会議室を占拠して勝手に「石巻2.0六本木屯所」をつくりました。社長にも説明をして、社内のクリエイティブの力も借りてフリーペーパー『石巻Voice』の立ち上げやイベントの制作など、W+Kの深い理解とサポートが得ることができたことで、石巻2.0の基礎を作り出すことが出来ました。



2011年末に会社を辞めてから約1年、ほぼ仕事はせずに石巻のNPOの活動に集中していました。石巻での活動でもクリエイティブや編集者として積み上げたスキルやノウハウ、広告代理店で学んだ事が役に立ちました。いま震災から2年半が経って、石巻2.0の組織も更におもしろくなって、以前と比較できないくらいエキサイティングな街になりました。前のように頻繁に石巻へは行けませんが、東京からできる後方支援を継続しています。



今の仕事を通しても石巻や東北に関われることも少しずつだけど出来てきて、11月3日に開催された「ツール・ド・東北」という自転車イベントでは、石巻2.0の理事の一人である古山くんが進めている「イトナブ」という現代的IT寺子屋に通う学生とアプリ開発をしました。今では、このイトナブに通う高校生が地元の小学生にアプリ開発を教えたり、日本のどこにも無い最高にエキサイティングなことが起こっています。石巻の一部の小学生は、MacBook Airを持ち歩きプログラム言語を学んでるんです。会社のオフィスリノベーションでは石巻2.0の兄弟プロジェクトである石巻工房の家具を揃えました。いまは自分なりにペースと距離感をつくりながら活動をしています。

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「石巻2.0の活動拠点『IRORI』。最近では地元高校生が普通にいてディスカッションが行われたりしている」

>>『目の前の仕事に全力を尽くせ PART 5』へ続く